夕暮れになると、少女は決まって丘の上にいた。

街を見下ろす小さな公園。

錆びかけたベンチと、一本の桜の木。

そこから見る夕焼けが、少女は好きだった。

ただし、ひとつだけ困ったことがある。

少女には、昨日の記憶がなかった。

朝起きると、前の日の出来事がすっぽり抜け落ちている。

名前も、住んでいる場所も、好きな食べ物も覚えている。

なのに昨日何をしていたのかだけが、どうしても思い出せない。

だから少女は、小さなノートを持ち歩いていた。

表紙には、少し癖のある文字でこう書かれている。

『明日のわたしへ』

その日も、少女はノートを開いた。

昨日のページには、たった一行。

『夕方五時半。赤いマフラーの人を待つこと。』

「……誰?」

少女は首をかしげた。

十月だというのに、今日は少し暖かい。

マフラーなんて、まだ早い気がする。

けれど、昨日の自分が書いたのなら、きっと何か理由があるのだろう。

少女はベンチに腰掛けた。

五時二十分。

五時二十五分。

五時二十九分。

そして、五時半。

「……あの」

声をかけてきたのは、赤いマフラーを巻いたおじいさんだった。

「昨日は、ありがとう」

少女は困った。

やっぱり覚えていない。

「あの……ごめんなさい。私、昨日のことが……」

「ああ、聞いているよ」

おじいさんは笑った。

「毎朝忘れちゃうんだってね」

そう言って、コートのポケットから一枚の写真を取り出した。

写真には、若い女性と小さな白い猫が写っていた。

「妻の写真なんだ」

おじいさんは、写真の端を指でなぞった。

「昨日、ここで落としてしまってね。君が拾ってくれたんだ」

「そうだったんですね」

「それだけじゃない」

おじいさんは、少し照れくさそうに笑った。

「君に聞かれたんだよ。『どうして、その写真をそんなに大切にしているんですか』って」

少女は黙って続きを待った。

「妻はね、もう十年前に亡くなったんだ」

風が吹いた。

桜の葉が一枚、二人の間を横切っていく。

「写真を見るたび、寂しくなる。でも、しまっておくのも嫌でね」

「……はい」

「そしたら君は、こう言ったんだ」

おじいさんは夕焼けを見上げた。

「『寂しくなるのは、まだ大切だからじゃないですか』って」

少女は少し驚いた。

自分がそんなことを言ったなんて、まるで覚えていない。

「だから、今日はお礼を言いに来たんだ」

おじいさんは立ち上がった。

「君は忘れてしまったかもしれないけれど、私は覚えているよ」

そう言って、ゆっくり丘を下りていった。

少女はしばらく、オレンジ色の空を眺めていた。

やがてノートを開く。

今日のページには、まだ何も書かれていない。

少女はペンを握った。

少し考えてから、ゆっくり文字を綴る。

『明日のわたしへ』

『今日は、昨日のわたしにお礼を言われました。』

『変なの。』

『でも、ちょっと嬉しかったです。』

そこで一度、ペンを止める。

そして、もう一行。

『もし明日、誰かに優しくしたくなったら、遠慮しなくていいと思います。』

ノートを閉じる頃には、太陽は山の向こうに隠れかけていた。

少女は空に向かって、小さく手を振った。

「じゃあね、今日のわたし」

明日の自分は、きっと今日のことを覚えていない。

それでもいい。

誰かが覚えていてくれることもある。

ノートに残せることもある。

そして何より。

忘れてしまっても、また新しい一日を始められる。

少女はベンチから立ち上がった。

夕暮れの街へ、ゆっくり歩き出す。

背中で、桜の葉が一枚揺れた。

第1話・おわり