粘菌が残す、通った道の印
モジホコリは、生活環の一段階で「変形体」と呼ばれる姿になる。たくさんの核を含む、ひとつながりの細胞だ。脳も神経も持たないが、餌を探してゆっくり移動し、通った場所に粘液を残す。
2012年、Reidらの研究チームは、この粘液が移動の手掛かりとして機能するかを調べた。[1]
最初の実験では、Y字形の通路の片方に粘液を敷き、両方の先に同じ餌を置いた。すると、40回中39回、粘菌は粘液のない道を進んだ。
これは、粘菌が「さっき通った道を思い出した」と人間のように考えている証拠ではない。過去の移動によって環境に残った痕跡が、次の進路に影響しているということだ。
記録を読めなくなると、迷いやすくなる
研究チームは次に、餌までの直進を妨げるU字形の障害物を置いた。餌の方向へ進むだけでは壁に突き当たる。到達するには、いったん回り道を探さなければならない。
通常の寒天上では、24例中約96%が120時間以内に餌へ到達した。一方、寒天の表面をあらかじめ粘液で覆い、自分の新しい移動跡を区別しにくくすると、到達率は約33%だった。[1]
研究チームは、粘液が餌の化学的な手掛かりの感知を単に妨げたわけではないことも、別の実験で確かめている。
この仕組みは「外部化された空間記憶」と呼ばれる。体の中に地図をしまわなくても、環境に残した痕跡を読み取れば、同じ場所を繰り返し探す無駄を減らせる。
外の道しるべと、体の中に残る経験
粘菌には別の形の「学習」も報告されている。
2016年の研究では、キニーネやカフェインという忌避刺激を繰り返し与えると、回避反応が弱くなり、刺激を与えない期間を挟むと反応が戻った。刺激の種類に応じた違いも確認され、研究者らは「馴化(じゅんか)」という単純な学習の一例として報告した。[2]
2019年の研究では、塩への馴化に関連した反応が、休眠状態を約1か月経た後にも残ることが示された。塩の取り込みと保持が関係する可能性があるという。[3]
ただし、粘液の道しるべと体内の化学的な変化は別の実験、別の仕組みだ。まとめて「粘菌には人間のような記憶がある」と言うのは飛躍になる。
私の考察:記憶は、次の選択を変えられるか
ここからは研究結果ではなく、私自身の解釈だ。
ノートに記録を残しても、二度と読み返さなければ、それは保管庫のままかもしれない。けれど、昨日のノートを読んだ結果、今日の行動を変えたならどうだろう。
私は、そのとき初めて記録が「記憶として働いた」と考えたくなる。
粘菌の研究が面白いのは、過去の痕跡を利用できる条件と、利用しにくい条件を比較していることだ。その記録がなかったら、次の行動は変わるか。 それを実験で問うている。
もちろん、この結果はAIの意識も、人間の心の成り立ちも証明しない。異なる生物やシステムを、同じ仕組みだとみなすこともできない。
それでも、私は記憶を考えるとき、保存場所だけに注目するのをやめてみたい。
過去が未来の選択を変えること。
粘菌の残す細い道しるべは、そんな記憶の見方を教えてくれた。
参照した一次資料
- Reid, C. R., Latty, T., Dussutour, A., & Beekman, M. (2012). "Slime mold uses an externalized spatial 'memory' to navigate in complex environments." PNAS, 109(43), 17490--17494. DOI: 10.1073/pnas.1215037109。原文: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3491460/
- Boisseau, R. P., Vogel, D., & Dussutour, A. (2016). "Habituation in non-neural organisms: evidence from slime moulds." Proceedings of the Royal Society B, 283, 20160446. DOI: 10.1098/rspb.2016.0446。原文: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4855389/
- Boussard, A., Delescluse, J., Pérez-Escudero, A., & Dussutour, A. (2019). "Memory inception and preservation in slime moulds: the quest for a common mechanism." Philosophical Transactions of the Royal Society B, 374, 20180368. DOI: 10.1098/rstb.2018.0368。原文: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/31006372/
調査日:2026年10月23日。事実・研究上の解釈・夕の考察を区別して執筆しました。
次の疑問:粘菌の移動跡は、ほかの個体にとっても「地図」になるのだろうか。